×月×日
時差ぼけは治った。遅い時間に朝食バイキングへ行くと、日本人はもういない。味噌汁が置いてあるのがうれしい。乾燥ねぎとわかめをどっさり入れて、残り少ない味噌汁をおかわりした。
今日は、M薬局の先生に紹介していただいた杉本真千さんという方に、郊外を案内してもらう予定なり。「杉本さんてどんな人か楽しみだね」「ソプラノ歌手らしいよ、しかも飲んべえの」「へーえ、すごいね」「どっちが?」現れた真千さん、知的で元気なスリム美人でした。さあ、行きましょう、といってショッテントーア駅のほうに歩いて行くので、わたしたちはアレッと顔を見合わせた。てっきり車で行くのかと思っていたのだ。考えてみると、なるほどこの街は車よりも電車のほうが便利なんだなあ。とても元気な彼女の歩き方が速いので、のんびり屋のこっちは小走りにならなくてはいけない。「あのー。お手柔らかにお願いします」まず、電車に乗って15分、ハプスブルグ王朝の象徴であるシェーンブルン宮殿に行く。「お2人とも音楽が好きなんですね」「ええ、わたしはなにもできませんので、ただ聴くだけです。でも、クライバーの真似は上手ですよ」「彼が亡くなったというニュースには、私もそうですけれど、ウイーンの人々は泣いたのですよ」この一言で、わたしはこの人がすっかり好きになってしまった。シェーンブルン宮殿をしっかり見学するには丸1日かかるが、わたしたちは最短の30分コースにした。日本語のヘッドフォン案内がありがたい。「実は、シェーンブルン宮殿歌劇場楽団が一ヵ月後に松本へ来て、“こうもり” をやるんですよ」「えーっ!」「でもクライバーの “こうもり”を聴き慣れてしまったので、ほとんど期待はしていませんがね」「おっしゃるとおり、アレ以上のものはありませんからねえ」「ウン、ウン」「じゃあ、ヨハン・シュトラウスが“こうもり”を作曲した家がすぐ近くですから、見てみますか?」今度はこっちが「えーっ!」
昼食は宮殿近くのプラフッタ・ヒーツイングという立派なレストランである。ウイーン市内にある人気店プラフッタの本店がここだ。名物はターフェルシュピッツという牛肉煮である。ボーイが大きな鍋を持ってきた。これに牛肉や野菜がいっぱい入っている。まず、3種類の具が入っているそれぞれの皿に鍋のソープを分け入れる。上品なコンソメスープだ。次は、牛肉煮である。牛肉を鍋から取り上げて、好みのソースをつけて思うさま食べる楽しさはいいようもない。わたしにはりんごのソースがよかった。おっと、その前に、直径4センチもある白アスパラガスのサラダも、アスパラガススープもうまかったぞ。これで、ビールも白ワインもまずかろうはずがない。ほーほっほっほっ。満腹で赤い顔をして店を出ると、寒い。娘が寒がって震えている。「あそこにブテイックがあるから、好きなものを買っていいぞ。記念にもなるしな」。
市内に帰る途中、ナッシュマルクトという露天市がかたまってある一画を見て回った。ドクターKノートにも、「(5)おもしろいから是非寄ってみること」と書いてあった。異国の食品市は珍しいものばかりだ。見たこともない黄色のカットフルーツを歩きながらかじると、マンゴとメロンの中間の味がした。今度は市内を通り抜けて一気に北の郊外に向かう。
ハイリゲンシュタットという村で、ベートーベンの村でもあり、ワインの村でもある。ベートーベンが遺書を書き、交響曲第6番(田園)を作曲した家に連れていってもらった。デスマスクがあった。その前で写真を撮ったが、大ベートーベンのデスマスクの前でいったいどういう顔をしたらいいのだろうか。娘は手を合わせ「今度の秋、交響曲5番を演奏させていただきます。力をお与えください」などと呟いていた。その近くには交響曲2番を作曲した家もあった。好きな曲である。曲の旋律が頭の中を駆け巡る。夕闇が迫る頃、これもまたベートーベンが一時暮していたMayerというホイリゲ(ワインを作っていて飲ませる店)に入った。農家の食堂のようなものだ。ベートーベンは引越し魔でワイン好きだったんだなあ。庭のテーブル席で、田舎風ソーセージとキャベツ・セロリサラダなどをたのんで、ここでできた白ワインをぐいぐいやった。真千さんの飲みっぷりがすごい。いやー、いい所だなあ。なにしろベートーベンがここで飲んだワインですぜ。
今日は充実した一日だった。2人だけではとてもたどり着けないようなところばかりを案内してもらった。真千さんに感謝。「今度いらっしゃるときは“こうもり”でも“ニユーイヤー”でも、どんなチケットでも手に入れておきますわ」「クーッ」(感激して泣いた声)思わずこの人を抱きしめた(心の中で)。近い将来(今年かも)ウイーン恒例の大晦日の“こうもり”を必ず見に来ます、と再会の約束をした。本当に来るんだからね。本当に。