×月×日
昨日と同じように早起きして7時に食堂へ走る。いい感じの50代の日本人夫婦が2組、離れて、ひっそりと食事中であった。軽く会釈して、足音を立てないように通り抜けて席に着く。今日はハム入り炒り卵を1皿だけ頼んで、2人で食べた。表面が少し渦巻きになっている丸いパンがこちらではオーソドックスで、ちょいとうまい。娘は小きゅうりの漬物が気に入ったようで、今日もぽりぽりとやっている。
滔々と流れるザルツアッハ川にかかるマカルト小橋という歩道を渡る。上流にモーツアルト小橋を望み、旧市街を振り返るとホーエン・ザルツブルグ城が山の上にそびえ立ち、まわりを睥睨している。川沿いの両岸には白と桃色のマロニエが満開で美しい。今が最も美しい季節なのであろう。橋を渡ったところに日本のおじさんおばさんが20人ぐらいで群れをなし、ワイワイやっていた。先頭の人が「よーし、橋をわたるぞー」と叫ぶ。「ギャーギャーわいわい」「きゃー、ちょっと待ってよー」「あっ、ここカラヤンの家よ!待ってー、置いてかないでー、アレー」朝から騒々しいことおびただしい。「なんか、ちょっといやだね」と娘。「まあな。日本人はどこでもこんなもんさ。でもおかげでヤンカラ(われわれはいつもこう呼んでいる)の家がわかった」それは4階建ての立派な家で、中庭には指揮姿の銅像が、やはり右顔をこちら斜めに向けて立っていた。確か、映像でもこの方向からしか顔を撮らせなかったらしいな。ヤンカラ先生と記念写真。再び言っておくけど、べつにこの人が好きなわけじゃないぞ。ここから100mも離れていないところに、モーツアルトが26歳のときに移り住んだ家があり、これもまた博物館になっていた。考えてみれば、ヤンカラ大先生はものすごい環境で生まれ育ったのだなあ。
地図を見るとミラデル宮殿が近くにあり、その庭は映画“サウンド・オブ・ミュージック”でドレミの歌を歌った場所なのだ。歩いて5分ほどの距離だが、方向音痴の2人はなぜか30分も歩き回り、ようやくその裏側にたどり着いた。庭園は花いっぱいで、広場では制服を来たシロート楽団がヘタなワルツをやっていた。これよりももっとヘタな学生オーケストラでフルート首席奏者をしている娘は、どうもこれが気になるらしい。へたばってベンチに座り込んだまま動こうとしないオヤジを残して、ヒョコヒョコと群衆の中に入っていった。
昼食は川沿いにあるホテル・ザッハーで。Trumer Pilsというビールがうまい。
クレープ細切り入りのコンソメスープ、スモークサーモンのオープンサンド、ソーセージを注文した。ソーセージはボーイが銀の鍋を持ってきて、30センチのものを2つ大皿に取り分けたぞ。何の変哲もないソーセージに見えるが、マスタードをたっぷりつけ、酢キャベツと一緒に食べてみると、これがうまい。本物のウインナーソーセージだからねえ。すかさずビールをおかわり。もちろん娘の方はこれでは納まらない。かの有名なザッハートルテという濃厚に甘いチョコレートケーキを、わたしはメランジュ(ウインナーコーヒー)を追加した。
疲れたのでホテルに帰って一休み。極端に体力のない2人はけっして無理なことはしない。これをみてあれもみてそっちもまわってみる、などという貪欲な旅とは無縁である。部屋の窓から外を見ると、50mぐらい離れたところにザルツブルグ音楽祭の舞台になる祝祭劇場がある。すると…、地図を見ると…、この窓の下の小さな空き地はカラヤン広場という名前だな。音楽祭で指揮を終えたカラヤンは指揮棒を持ったままこの広場を歩いてきて、この窓の下の裏口からホテルの食堂に飛びこんだのだそうな。
夕方は買い物に出かけた。しかし、昨日に引き続き、日曜日なのでほとんどの店が閉まっている。フン、どうぞ、ずっと閉めておきなさい。もう開けなくてもいいからね。買い物はどうせ都会のウイーンでするんだもんね。ホテルの近くにアンテイーク店が開いていたので、見て回り、柄が鹿の角でできている虫眼鏡を買った。イタリア系の店主が、尊敬する井上靖に似ていたので写真を撮らせて、と頼んだ。「それはどういう人ですか?」「この半世紀、日本を代表する作家です」「それは光栄だ。その作家の名前を教えてください」ローマ字で書いて、代表作も教えたところ、よほど嬉しかったのだろうか。奥のドアの鍵を開けて、高価な品だけを揃えている部屋に2人を招き入れ、一口ケーキを出してシャンペンの小瓶まで開けた。親切すぎて少々居心地が悪くなり、早々と引き揚げようとしたら、「ちょっと待って。今、カプチーノをいれています」「いや、もう結構です」
夕食はここ、と決めていたので、迷わずSternbrauというビアレストランに飛び込む。実はこの店、日本を出る前から決めていたのである。ずっと年上の友人でウイーンにとても詳しいドクターKが、わたしのために作ってくれたマル秘ノートがある。観るべき所、店、レストランなどが重要順に、解説とともに手書きの地図に書き込まれている。ドクターKはこの店のステーキの肉の味に感激し、連夜通ったそうだ。確かに、噛めばかむほど肉らしい香りがぷんぷんしてきて、日本の油っぽいのとは大違いだ。そのほかには、40センチ大の岩魚のようなCharfishのソテーと、ポテトサラダ。例の塩パンが付いてきた。Kaiserというビールを気持ちよく2杯。