×月×日
時差のせいで朝起きるのは早い。7時ちょうどに食堂へ行くとまだだれもいない。正装した年配のホテルマンがうやうやしくドイツ語で挨拶してくるが、こっちは構わず「ハロー」だ。ドイツ語などトンとわからないので英語で押し切るつもりなり。しかも片言の。カラヤン大先生をはじめ名だたるマエストロや世界のVIPが食事したであろう格式ある食堂の雰囲気には圧倒されたが、こんなところはボクチンとっくに慣れているもんね、という顔をしていると、一番奥のテーブルに案内された。なーに、たかが朝飯である。目玉焼きにベーコンを頼んで、あとはバイキングになっている。3種類の生ジュースのビンが氷水をはった大きい木のタライに入っていた。長いスプーンが差し込んであり、自分でかき混ぜるらしい。のどが渇いているので、給仕の見ていない隙を狙ってすばやくその場で3杯がぶ飲みした。ほーほっほっほっ。目玉焼き2個は非日常的光景である。生活習慣病専門医のわたしは常日頃、「卵は週5個以内ですよ」などと偉そうに言っている。そうすると滞在中にあと3個しか食べられないではないか。どーすんだ、おい。と、怒ってもしょうがないので、冷静に考えた。8日間の旅なので1週ではなく2週にまたがるから、10個まではOKなんだな、これが。こんなことも、まあどーでもいい。今2人はあの夢にまで見たザルツブルグの地に立っているのだ。ごく小さなこの街はすべて中世のままだ。たぶん、そうだろうと思う(中世のヨーロッパなんて知らない)。幅が3mの歩道、ゲトライデ通りが観光のメインストリートで、ホテルもこの一角にある。それぞれの店がどういう店なのかが一目でわかる金属の飾りを街灯のように張り出しているので、華やかである。振り返ってホテル“ゴールドナー・ヒルシュ”の看板を見ると、やはり金色の鹿だったので、うれしくなる。2人でヤッホーと歩き出したが、今日はメーデーの祭日なのでほとんどの店が休みである。がっくり。 100m歩くと、右側に黄色い壁のモーツアルトの生家があった。クラシック音楽好きの2人旅、今回のテーマはモーツアルトとベートーベンである。ついにここへやってきたという感慨に襲われて2人とも無言になる。モーツアルト一家の肖像画、子供の頃使ったバイオリンとピアノ、にせものと思われる髪の毛などの数々。写真撮影厳禁であるのに、娘はかくれてパチパチ撮っているではないか。「おい。おい、こら!」「なに?」「これも撮れ」「あいよ」「ぬかるなよ」
あまりにも大きな歴史的メモリアルに相対し、頭の中がジーンと痺れたようになり、ふらふらと街の広場にさまよい出ると、大きなステージでアマチュアブラスバンドが演奏していた。広場いっぱいのテーブルにはたくさんの人々が飲んで食べての大騒ぎであった。日本にはない空気が流れている。隣のおやじはなにやら大粒の砂糖が付いている渦巻きパンをうまそうにほおばりながらビールを飲んでいた。よし、これだ。すぐさまビールと、同じパンを買ってきて食べてみたら、そのしょっぱいこと。塩だったのだ。そのおやじ、馴れ馴れしく「どうだい、うまいか?」「しょっぱいなー」「ああ、ここはザルツブルグ(塩の都)だからな」
気を取り直して山の上を見ると、立派な西洋風(当たり前だが)のお城がそびえ立っている。ホーエン・ザルツブルグ城だ。当然、登ってみなくてはならぬ。映画“サウンド・オブ・ミュージック”の舞台となったザンクト・ピーター教会の脇にケーブルカーがあるという。わたしはひどい方向音痴だが、その遺伝子が娘に色濃く移り、さらにそれが増幅されて脳が出来上がっているらしい。「あっちだ」「いや、こっちだよ」「ほんとかな」「あれ、そっちかな?」「やっぱりあっちだろう」などと言いながら歩いていると同じ形の銅像に何度もお会いする。たまたまさ迷い入った小さな広場に、モーツアルトの“魔笛”に登場する鳥飼い小僧・パパゲーノ像がポツンと立っていた。「やあパパゲーノ君。そうか、きみはここにいたのか」
夕食は、ホテルのフロントであらかじめ予約してもらったアルト・ザルツブルグというレストランへ行く。案内本には「建物は14世紀にさかのぼり……、オーストリアで最優秀料理人に輝いたシェフ……、全ヨーロッパからグルメが集まる2つ星の……」などとある。なんのことはない、岩をくりぬいた小さな穴蔵のような店だった。どこへ行ってもこっちは「ハロー」だ。「メニューは何語で?」「Japaneseだ」「ありません、サー」 出されたStieglというビールが、さすがのわたしにも苦く重く感じる。「次は別のビールをください」「これしかありません」とりつくしまもない。仕方がないので白のグラスワインにした。食べたものは (1)クレープ細切り入りコンソメスープ (2)白身魚のカルパッチョ風、たまねぎサラダどっさり (3)牛肉のコンソメ煮(ターフェルシュピッツ)焼きポテトつき (4)クリームビュルレ すべて一品で、2人で分けて食べたが、わたしたちにはこれで十分。味?まあこんなもんでしょうなあ。
短い詩
モーツアルトの街を娘と2人で徘徊する
燈火の入った古い街を、なにかに憑かれたように歩きまわる
薄暗い石畳の小路の隅から立ち昇ってくる呪文にかけられたに違いない
無言で少しうつむきながら石の小路を歩く
モーツアルトが生まれたこの街はほかにいかなる歩き方もないのだ
200年前と同じ顔をした人々が行き交う
2人は無言で少しうつむきながら歩く
モーツアルトが育ち、恋をした街はほかにいかなる歩き方もないのだ
今宵、2人がつかの間の詩人になったのも、あの呪文のせいに違いない