僕は一日中家の中で暮していて、家の外に出るのは、とうちゃんに首輪をつけてもらって庭を散歩するときだけなのだ。猫が犬のように首輪をして飼い主と行儀よく歩いている光景を、誰が想像できるだろうか。そう、僕はこの世でも珍しい散歩猫なのだ。とうちゃんが買ってきてくれたリードは首と両脇を別々に固定するもので優れものだった。固定の強さは調節できるので苦しいことは全くない。それに、リードはひもを付け足して3メートルぐらいの長さにしてくれたので、高い塀の上や木陰の狭いところも自由自在に歩き回ることができる。散歩といっても家の敷地内だけのことである。幼少のときのトラウマがあって、敷地外に出るのは今でも恐いのだ。僕が散歩に出かけるときになぜ首輪が必要なのかは、第4話で少し述べたが、改めて解説しておいた方がいいだろう。僕は人(猫)一倍臆病なのである。たとえば、外で独りになったとき、僕は恐くて恐くて仕方がない。人がこちらに近づいてくると反射的に逃げてしまう。これは、とうちゃんやかあちゃんが「くろべえ、おいで」と猫なで声で近づいてくるときでも例外ではない。ということは、1人野に放たれたら、誰も僕を捕まえることができないということになる。家族は僕が行方不明になることを心配するのである。たとえば、郵便局のおじさんや宅急便のおにいさんなどが玄関に入ってくると、散歩中の僕は恐怖のためパニックに陥ってしまう。「あっ、こらっ、ここはオレサマの家だぞ」と立ち上がって抗議を申し述べたいところだが、それどころではなく、地べた這いずり型歩行で猛然と逃げるのであった。リードが伸びきってしまうとそれ以上逃げられないので、身体を反転させ後ずさり型踏ん張り歩行に切り変える。すると、あら不思議、これこそ猫の肉体の魔術。手と首がすっぽりと抜けるのさ。僕は一目散に逃げ出し、とうちゃんはあわてて追いかけてくる。僕は気が動転しているわけだから、絶対に捕まらないぞ、などと変な勘違いをしてはりきってしまうのだ。外での鬼ごっこになったら僕が負けるわけがない。とうちゃんは困り果ててしまい、結局、玄関のドアを開け放ち、奇声をあげながら僕を追いかけてくる。家の周囲を何周か走り回った後、開いているドアからピユーと家の中へ逃げ込んで、奇妙な騒動はお終いになるのさ。
僕の散歩に付き合ってくれるのはとうちゃんだけだ。かあちゃんとねえちゃんはすぐに退屈してしまって、「くろべえと散歩するなんてまっぴらごめんよ」とまるで相手にしてくれない。散歩は昼と夕方の1日2回、15分ぐらいが日課であるが、とうちゃんの都合で夜になることもある。僕が散歩する主な目的は、他の猫が通った痕跡を匂いで確認することや草を食べたり虫を探したりすることなので、犬の場合とは様相が異なる。犬のようにスコタラ歩いたりはしない。あっちでクンクンこっちでクンクン、5、6歩戻っては空を眺め、石の上に座りこんで大あくび。これでは全然先には進まないが、先に進もうとは思ってもいないのだから仕方がない。はじめのころはさすがの鷹揚なとうちゃんも、「おい。べえ公、はやく歩け」などと叱咤し、僕のお尻を小突いたりしていたが、僕はそのたびに怒って、後ろを振り向きながら「うるさいよ、とうちゃん」と叫ぶのであった。僕がうろつきまわるコースは大抵決まっている。玄関を出てから庭の方へぐるっと周り、枯れ池の木橋を渡ると、サルスベリやコウヤマキなどの大きい木に遭遇するが、僕には興味がない。これは毒だから近づいてはいけないよ、と注意されているアセビの前をすばやく通り抜け、カイドウやボタンの地域に入ると、僕にとってはまるでジャングルのようなところに入り込んだ気持ちになる。ここで草を食べる。どんな草かって?イネ科で葉が尖ったのがいいね。クローバーやタンポポやニラのような葉っぱは臭くてとても食えない。一番好きなのは猫じゃらしの草。人間はこの草によくぞいい名前をつけてくれました。葉っぱはあっさりとした爽やかな香ばしさで、柔らかいサクサクの食感がよい。毛が固まっている実の部分はほろ苦く、おつな味だね。実に生えている毛は適度のトゲトゲ感があり、心地よい嘔吐感を催してくれるのである。猫が草を食べるのは吐きたいがためである、などと人間は考察しているようだ。毛玉が胃に溜まりやすいので嘔吐したいという生理学的欲求のあることは理由のひとつだが、けっしてそれだけじゃあない。本当は美味しいから草を食べるのさ。それに、猫だって御身大切。ビタミンや葉酸もしっかり摂らないとね。実際、草を食べ過ぎて吐くのは辛いものだ。しかし、とうちゃんがその加減を調節してくれて、これ以上食べるとヤバイというところで、「おい、べえ公、それぐらいにしとけ」といってくれるので助かっている。草を食べた後はコデマリの下を潜り抜け、竜のひげの地帯に入っていく。西側の崖っぷちは一面、竜のひげの草原になっている。草に分け入り、フェンス際に座って崖下をしばらく観察する。とうちゃんは僕に背を向けてマサキの樹の下の石に座りこみ、瞑想の時間に入る。とうちゃんはこの竜のひげが好きで、「こんなにたくさんの竜のひげはどこにもない」と自慢する。この草、秋になると、モサモサした細い尖った葉っぱの中に見事な美しい実をつくる。とうちゃんは毎日この石に座って、夏に白い綿毛のような花から小さい淡緑色の実が形作られ、大きくなるにつれて緑の色を濃くし、魅惑的な深緑色からトルコ石色に変化していく様を飽くことなく観察するのである。これはとうちゃんの小さな愉楽のひとつになったようで、僕の散歩のおかげなのさ。とうちゃんは眼を輝かせながら、その草の玉をまるで宝石のように丁寧にハンカチに包み、あとでかあちゃんとねえちゃんに「ほら、すごいだろう」と見せびらかすのだが、2人とも「ふーん」とまるで相手にしてくれないので、口惜しそうだ。竜のひげのあとは幼少のときに暮したあのすずらんの葉っぱをくぐり抜け、ベランダの匂いに変化がないことを確認し、ヤツデの木の根元に侵入してそっとオナラをしたあと、門柱に登って家の前を犬が通らないものかと監視する。これが僕の散歩する一般的な道筋である。
毎日同じようなことをしていても何か小さなドラマは起きるし、些細な新しい発見はあるものだ。春には、かっこうが目の前のカエデの木に止まり、かっこう、かっこうと鳴き出したことがある。声はよく聞くが一度もその姿を見たことがないかっこうだが、こんなに眼のつり上がった高慢ちきな顔をしているとは思わなかった。あまりにも突然の出現であったため、僕は身構える余裕もなく、かっこうと鳴くたびに丸く膨れる鳥胸を呆然と見つめていたものだった。飛び去るときに、あやつゲヘヘッと下品な呻き声を漏らしたのを、とうちゃんと僕は確かに聞いたぞ。真夏には、大きい毛虫をよいしょよいしょと、地面の巣穴に入れている狩猟蜂を目撃したことがある。初秋には、草の中で羽を広げておどろおどろしく威嚇する大カマキリを僕の左ジャブで一発KOしたこともある。また、晩秋には、ボタンの葉にしがみついているオツネントンボという糸トンボを捕ろうとしてジャンプしたとき、オツネントンボを自分の友達だと思っているとうちゃんが繰り出した必殺の脳天唐竹割りチョップが僕の脳天にカウンターで決まり、失神寸前に陥ったこともある。大雪のあった翌日は、足があまりにも冷たいので、灯篭に飛び乗り、その勢いで松の木に飛びついて高い枝まで登っていった。猫は登るのは得意だが降りるのが苦手だ。つい調子に乗って高いところまで来てしまった、と思ったらもう遅い。高所恐怖症の僕は足が震え、もがいているうちに木に積もっている雪のなだれに直撃され、足を滑らせて頭から落っこちてしまった。石灯籠に頭を打ち付けておだぶつかと思った瞬間、とうちゃんが僕を抱き上げてくれたので命は助かったのであった。
散歩の途中で、家の前を通る人がいると、とうちゃんは奇妙な行動をとる。おっとっと、と言いながら木陰に隠れたり、地面に這いつくばるようにしゃがみこんでしまう。その身の翻し方は見事と言ってよい。僕はそのわけを知っているよ。家の前の小道を歩いている人には、僕の姿やリードなどは塀に隠れて全く見えないのだ。つまり、通行人には、特に用事もないのに間抜けな顔をしてヌーボーと庭に突っ立って、ときおり空を眺めている怪しい中年おやじの姿しか眼に入らないのである。これでは、ちょっとタリナイおやじなのか、さまよっている変質者なのか、よくわからない。さすがのとうちゃんも少しは体裁を気にするらしく、あわてて身を隠すのである。「あれっ、おとうさん急にしゃがみこんで変なことをしているよ」「どうせ、また、アリさんとでもお話しているんでしょうよ」などという会話が家のなかから聞こえてきそうな気がする。
今日は3月初旬にしては冬に逆戻りしたようなひんやりする月曜日。のんびりした静かな昼下がり。いつもこの時間は、2階の広縁にある僕の家(50センチ四方の布でできたフワフワの猫小屋)で昼寝をしている。そろそろ、とうちゃんとかあちゃんが昼食を終えていったん家に戻ってくる頃だ。あっ、車のドアが閉まって、2人の足音が聞こえてきた。僕には家族3人の足音を聞分けることができるのだ。さあ、玄関に行ってお出迎えしようかな。お出迎えすると、とうちゃんは単純なので嬉しがり、「おっ、くろべえ、待ってたのか。よしよし。じゃあ散歩にいくかあ」といって、そのまま散歩に連れて行ってくれることが多いのさ。