糖尿病、生活習慣病の専門医院 松本市・多田内科医院

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私が選んだ百人一首(三)

三十 紀友則 (八四五?~九〇五?)
ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花のちるらむ
(日の光がやわらかに降り注ぐ、このおだやかな春の日に、落ちついた心もなく、どうして桜の花は散っていくのだろう)
 本著ではじめて、小倉百人一首掲載歌を採った。このゆったりとした、おおらかな美しい調べはどうだろう。小倉百人一首の中で、私が好きなベスト三に入る歌だ。散る桜に持つ日本人の感性は独特のものだろう。美しいばかりではなく、どこか儚い無常観を感じるし、人によっては散り際の潔さを思うかもしれない。なによりも“しづ心なく”がこの歌の要であり、一抹の哀愁を醸し出している。そして、ハ行音の繰り返しが柔らかく心地よい響きになっている。「なだらかなしらべは、人間の作ったものとも思われない」と、田辺聖子は絶賛している。なお、“ひさかた”は、天(あま)に掛かる枕詞で、日・雨・月・都などの枕詞として使われることが多く、光の枕詞としてはこの歌が初例であるらしい。
 友則は紀貫之の従兄で、貫之より二〇歳ぐらい年上だ。貫之の絢爛たる才気と対照的に、内面性の深い表現にすぐれた人であったという。古今集撰者四人の一人である。官位は低いどころか、四〇歳半ばまで無官で過ごした。時の権力者・藤原時平にそのことを嘆いたところ、時平から「いままでになどかは花の咲かずして四十(よそ)とせまでに年切りのする」(今までどうして花が咲かずに四十年余りも実を結ばなかったのか)と歌が贈られた。それに対する友則の返歌「はるばるの数はまどはずありながら花咲かぬ木をなにに植ゑけん」(毎年春は忘れずにやって来るのに、私のような花の咲かない木をどうして植えたのでしょう)。時平の力が働いたのかどうか、晩年には大内記(詔勅の起草にに当たる要職)に任官した。悪者のイメージが強い時平だが、私の中では、ここで評価を少し回復したようだ。
 古今集編纂は九〇五年に始まり、宮中で行なわれたが、卑官の身で内裏に上がることのなかった友則はどんなにか晴れがましい気分だっただろう。しかし、残念なことに、古今集完成を見ずに亡くなってしまった。その悔しい最期にも「しづ心なく花の散る」に似た哀れさがある。
 友則が亡くなったときの紀貫之と壬生忠岑の哀傷歌
明日知らぬわが身と思へど暮れぬ間の今日は人こそかなしかりけれ
(私だって明日の運命が分からないことは承知しているが、今日という間は彼のことが悲しくてどうしようもないのだ)
時しもあれ秋やは人の別るべきあるを見るだに恋しきものを
(季節もいろいろあるのに、よりによって秋に人が別れを告げていいのだろうか。生きて元気のある友達を見ていたって心細くなるというのに)

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