つれもなくなりゆく人の言の葉ぞ秋より先の紅葉なりける(つれなくなってゆくあの人の言葉は、葉というだけあって、まだ秋には早い紅葉のようなものだ) “言の葉”は手紙などの文言や和歌のこと。和歌では草木の“葉”に掛けられることが多い。“秋”は“飽き”に掛かっている。あなたの手紙の言葉は、葉というだけあって、紅葉さながらあなたの心も移り変わってしまうのですね。でもまだ、秋が来るには早すぎるのに、と恋人の変身とつれなさを恨む歌である。秋でもないのに言の葉の色が変わる、という発想が新鮮に感じられる。一見単純な歌のようで、結構技巧的だ。
宗于は光孝天皇の孫で、是忠親王の子。臣籍に下って源姓を賜った。諸国の国守を歴任し、右京大夫になった。紀貫之とは心のこもった贈答歌が残っており、親交があったようだ。一般的に歌人としてはあまり知られていないが、「大和物語」にたびたび登場し、身分の不遇をかこつ逸話が多い。たとえば、叔父に当たる宇多天皇が海松(みるめ)という海草を題として皆に歌を詠ませたときの歌、
沖つ風ふけゐの浦に立つ浪のなごりにさへや我は沈まむ(沖つ風の吹く吹飯の浦に、波が立ち退いてゆく。そのなごりの浅い水にさえ私は沈んでしまうだろう) このように、自分が低い官位のまま立身出世できずに苦しんでいることを、天皇に直接訴えたりしている。それに対し天皇は「さあ、何のことだろうか。この歌の意味が分からない」と側近にお話になったということだ。しかし、これは宗于の大きな間違いだと思う。官位を決めるのはあくまで太政官であって、天皇は人事には直接介入することはなく、親任なさるだけなのだ。この時代でも、天皇はあくまで最高権威であって、直接権力を振るうことはないのである。だから「何のことかな?」と知って知らぬふりをしたのだろう。出世できずに悶々としていた宗于だが、次のような恋の歌も残っているので、鬱屈した人生だけではなかったと思われる。
よそながら思ひしよりも夏の夜の見はてぬ夢ぞはかなかりける(逢わずに想っていたときよりも、夏の夜の見果てぬ夢のような短い逢瀬のほうが儚かった)
小倉百人一首 山里は冬ぞさびしさまさりける人目も草もかれぬと思へば