をみなへし折る手にうつる白玉はむかしの今日にあらぬ涙か(女郎花を手折ると白露が手にかかる。これは親王がご存命であった昔が、もう今日のことではないという嘆く涙であろうか)
宇多院皇子敦慶親王(醍醐天皇の弟)は、定方の姉胤子が産んだ皇子、つまり定方の甥にあたる。敦慶親王といえば、あの伊勢を寵愛した皇子である。おそらく文化を愛する聡明な皇子だったのだろう。定方や藤原兼輔など風流人士が皇子のところに集まり、文化サロンを形成していたと思われる。定方達は、皇子が亡くなった後も御所がさびれぬように上達部を引き連れて様々な会を催していた。そのとき、女郎花が好きだった敦慶親王を思い出して、花を頭にかざして詠んだのが掲出歌である。手折った花から落ちた露を涙に喩えた歌だ。「むかしの今日にあらぬ」という言葉がちょっと微妙で、意味が分かりづらい。しかし、何度も口ずさんでいるうちに、「今はもういらっしゃらないのだと、嘆く」意味だなと、すっと心の中に馴染んでくる。なお、女郎花は憶良の歌にあるように秋の七草で、古代はずいぶん愛された草だ。この花が独特の臭気を放つことを知らなかった私は、家の中に飾ったとき、この悪臭の原因はなにかと一日中探し回ったことだった。
定方は内大臣藤原高藤の次男。姉の胤子は宇多天皇の女御で醍醐天皇を生んだ。息子の朝忠も著明な歌人(第三十九番)である。藤原兼輔(第二十五番)はいとこで娘婿でもあり、親好が深かった。定方は右大臣まで昇進し、しかも天皇の外戚となっても政治には関心を示さず、風流を愛する温和な人物だった。
しかし、この定方よりも、「今昔物語」が伝える父高藤のロマンスのほうが面白い。高藤が若い頃山科に鷹狩りに出かけ、身分の低いある豪族の館で雨宿りした。そのときその邸の娘と一夜をともにした。何年かして、その娘が忘れられず訪ねてみると、彼女の傍には自分に似た美しい女の子がいた。純情な彼は母子を邸へ引き取り、生涯仲良く連れ添い、定方を生んだ。その雨宿りの姫が源定省という官士と結婚し男の子をもうけた。定省は光孝天皇皇子だが臣籍に降下していたのである。ところが、光孝天皇が崩御すると、いろいろあって、定省は再び皇族に復帰し、宇田天皇になったのである。しかも、二人の間に生まれた男の子は醍醐天皇になる。高藤・定方親子の立身出世はこのような幸運な巡り合わせが原因なのであった。
小倉百人一首 名にし負は逢坂山のさねかづら人に知られでくるよしもがな