旅人は袂すずしくなりにけり関吹き越ゆる須磨の浦風(旅人は袂を冷ややかに感じるようになった。関を自由に吹き越えてゆく須磨の浦風よ)
行平三十七歳の時、何かの事件に連座し、流罪というわけでもないが自ら身を引いて摂津国の須磨に籠もったらしい。このとき詠った、
わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩たれつつ侘ぶと答えよという有名な歌がある。この歌も良いが、「旅人は」のほうが籠居中の悲哀感がより強く、季節の推移やその地の荒涼さのわびしさが感じられる。
紫式部はこの場面に刺激を受け、「源氏物語」の中で光源氏が須磨に蟄居する章を構想したのである。一部分を引用すると、「須磨には、いとど心づくしの秋風に、海はすこし遠けれど、行平の中納言の、“関吹き越ゆる”と言ひけん浦風、夜々はげにいと近く聞こえて、またなくあはれなるものは、かかる所の秋なりけり」また、「・・・独り目をさまして、枕をそばだてて四方の嵐を聞きたまふに、波ただここもとに立ちくる心地して、涙落つともおぼえぬに枕浮くばかりになりにけり」
行平は平城天皇皇子阿保親王の子。在原の姓を賜り皇籍を離れた。業平の異母兄であるが、業平とは性格も経歴も全く異なる。地道に役人の仕事を遂行し、最終的には民部省長官として財政を担当し、手腕を発揮した名官僚であった。
小倉百人一首 たち別れいなばの山の峰に生ふるまつとし聞かばいま帰り来む