照る月をまさきの網によりかけてあかず別るる人をつながむ(輝く月をまさ木の葛を網に縒って繋ぎ止めよう、心残りのまま別れてゆく人も)
“まさ木”は杣木を運ぶのに使う葛のこと。詞書によると、在原行平が月の明るい夜に訪れて来てお酒を飲んで歓談した。さあ帰ろうとしたとき、融が名残を惜しんで作った歌である。繋ぎ止めておきたいのは、もうすぐ山の端に隠れてしまいそうな美しい月と、語り飽きない友人の両方だろう。行平の返しの歌が
かぎりなき思ひの綱のなくばこそまさ木のかづら縒りも悩まめ
源融は嵯峨天皇の十二番目の皇子である。子沢山の嵯峨天皇は、これをみな親王にすると国家財政がもたないという理由から、男女八人に「源朝臣」の姓を賜り臣下とした。いわゆる嵯峨源氏である。この中で特に頭角を現したのが融である。陸奥出羽の按察使となり莫大な富を築いた。その財力は国家予算の数年分もあったという説もある。その後参議を経て左大臣までなった。融は富と権勢を背景に豪奢な逸楽の生活を送ったのである。賀茂川のほとりに440メートル四方の「河原院」と呼ばれる豪邸を造り、奥州塩竃に似せた形の池で塩を焼き、藻塩の煙の立つ様子を鑑賞した。難波の海から毎日海水を運んで魚介を飼ったりもしたらしい。この「河原院」では毎晩歌会などの催し物が開かれ、在原業平などの風流人たちが集ったという。もう一つ面白いエピソードがある。悪名高き時の権力者であった藤原基経が陽成天皇を降ろし、光孝天皇を推したとき、融は「いかがかは。近き皇胤をたづねれば、融らもはべるは」と主張したという。つまり、近い天皇の血筋ならこのワシもいるぞ、と皇位をのぞむ野心も強かったのだ。
実は、この融こそ光源氏のモデルの一人なのである。尊い身分で教養があり財力もありハンサム。まさに光源氏とぴったり合うではないか。
私の好きな歌がもう一つ、
今日桜しづくにわが身いざ濡れむ香ごめに誘う風の来ぬ間に(今日、桜よ、雫に我が身はさあ濡れよう。香もろともに誘い去ってゆく風が来ないうちに)
小倉百人一首 みちのくのしのぶもぢずり誰ゆえに乱れそめにしわれならなくに