末の露もとのしづくや世の中のおくれさきだつためしなるらむ(葉末に宿る露や根元にしたたり落ちる雫は、この世の中では遅い早いの違いはあっても、すべてのものがはいつかは滅びてゆくということの実例であろうか)
“末の露”は草木の葉末に置く露、“もと”は草木の根元の意。
梢の露、根元の雫どちらも早い遅いの違いはあれ、落ちてゆく。それと同じように、世の中は遅れて亡くなる人もいれば先んじて死んでいく人もいる。我々の命はさだめのない儚いものよ、と嘆じている。永劫の中では人の命は露や雫の一瞬のきらめきのようなものなのだ。この歌は遍昭を引き立てた仁明天皇が崩御したときに詠われた。
遍昭の俗名は良岑宗貞(よしみねむねさだ)。桓武天皇の孫である。素性法師の父。抜群の美男で容姿端正であったといわれる。仁明天皇の恩寵を受け蔵人頭になる。仁明天皇崩御直後に出家し比叡山に入った。このとき三十五歳。五十代に入ると名僧として再び宮廷に迎えられる。光孝天皇とは竹馬の友で、いよいよ重く用いられ、七十歳で僧正となる。これは仏教界で最高位の指導者である。
遍昭の歌でもう一つ好きなのがある。
蓮葉(はちすば)のにごりにしまぬ心もてなにかは露を玉とあざむく(蓮は濁った泥水に染まぬ心でもって、なぜ露を玉と欺いてみせるのか)
若い頃は深草少将と呼ばれ、小野小町との恋物語を残した。ハンサムなだけではなく洒脱明朗な男で、出家後も小町と飄逸な問答歌を交わしている。
石(いそ)の上(かみ)に旅寝をすればいと寒し苔の衣をわれに貸さなん世をそむく苔の衣はただ一重貸さねば疎しいざ二人寝ん 石上寺に遍昭が居ると聞いた小町が、「寒いから黒染めの衣を貸してほしい」と挑発。それに対し、「一枚しかない衣、お断りするのも失礼。いっそ二人で寝ましょう」と。
小倉百人一首 天つ風雲のかよひ路吹きとぢよをとめの姿しばしとどめむ