思いきや鄙(ひな)のわかれにおとろへて海人の縄たきいさりせむとは(思っただろうか。田舎の地に遠く隔てられ、落ちぶれて、海人の縄を手繰って漁をしようとは)
“おとろえて”は意気沮喪することだが、落ちぶれるという意にもなる。“縄たき”は海人が漁りするときに縄(網縄・釣縄)を手繰ること。
小野篁は、遣隋使で有名な小野妹子の子孫で、篁の子孫が小野小町。漢詩文に優れ博識であった。身長一八六センチの大男で性格は直情径行、曲がったことは大嫌いという気骨があり“野狂”というあだ名があった。
遣唐使に二度撰ばれたがいずれも航海に失敗し、仁明天皇のとき三たび遣唐副使に任じられた。このとき遣唐大使である藤原常嗣の船が破損していたので、常嗣は篁が乗る船と取り換えることを願い出た。朝廷はこれを許可したので、篁は怒って仮病を使い乗船を拒否し、風刺する詩を作った。筋が通らないことは許せない性分なのだ。これが咎められ隠岐に流罪となった。隠岐島は島根半島の北にある島で本州から最短でも五〇Kmも離れている寂しい漁村である。しかし、その才能が惜しまれ二年後に召喚され参議を経て従三位となっている。
「思いきや」の歌は隠岐に流されたときに詠ったものである。さすがの豪胆な篁でも、第一句には寂しい遠島に流された悲嘆がほとばしっている。実際に篁自身が漁りしたわけではなく、誇張した表現で流人生活の悲劇的詩情を狙ったのだろう。はるか遠くの都への望郷の念と、今の境遇に対する悲壮感が伝わってくる。
小倉百人一首 わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人のつり船
これも隠岐に流されたときの歌である。篁のこれらの歌は、大変な影響力があったのである。というのは、遣唐使は一~十数年のサイクルで派遣され続けていたのが、篁が乗船拒否した第一九回遣唐使のあと五十六年間も遣唐使の派遣が停止されたのだ。そしてついに菅原道真の決断により遣唐使は廃止されたが、そのきっかけになったのは篁の歌であったのだ。遣唐使派遣は、遭難が多く危険が高い割に、唐から学ぶべきものが少なく、その存在意義が疑問視されていた。歌が歴史を動かす原動力になったのである。
篁はこういう一風変わった性格なので逸話が多く、地獄の冥官だったというのもその一つだ。京都の珍皇寺から冥界に入って、閻魔大王のもとで罪人を裁き、嵯峨の生の六道という地から現世へ還ってきたという。どこか魅力的な人物である。