はかなしやわが身のはてよ浅みどり野辺にたなびく霞と思へば(はかないことだ。我が身の果てよ。それは只うっすらとした藍色。野辺にたなびく霞であると思うと)
“浅みどり”は“野辺”に枕詞風に繋がるとともに、霞のはかない色を予告しているという。なお、浅みどりは薄い緑ではなく、夕空のような薄い藍色。この歌の“霞”とは、荼毘の煙が天に立ち昇るという意味である。憂き世の恋も悩みもしがらみも、死ねば焼かれて野辺にたなびく霞になるだけ、という小町のひそやかなつぶやきが聞こえてくるようだ。
小町の出生・経歴とも不明だが、絶世の美女であったこと、晩年は落魄流浪した点だけは諸説共通する。九世紀中頃に活躍したと推測されており、業平や遍昭や文屋康秀と親交があったという。「古今集」の仮名序で、貫之は彼女の歌を評して「あはれなるやうにてつよからず。いはばよき女のなやめるところあるに似たり」と、つまり、しみじみとしたところがあって、貴婦人が病んているような風情がある、と述べている。
六歌仙に撰ばれた文屋康秀とは特に親しかったらしく、国司として三河国に下ることになった康秀から「私と田舎見物にに行きませんか」と戯れに誘われて、
わびぬれば身を浮き草の根をたえて誘う水あらばいなむとぞ思う(詫び暮らしをしていたので、我が身を憂しと思っていたところです。浮草の根が切れて水に流れ去るように、私も誘ってくれる人があるなら、一緒に都を出て行こうと思います)と返歌している。あの小町からこんなことを言われて、一種の戯れとわかってはいるものの、康秀はさぞかし有頂天になったのではないだろうか。
小倉百人一首 花の色はうつりにけりないたづらにわが身よにふるながめせしまに