石(いは)走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも(岩にぶつかってしぶきをあげる滝のほとりのわらび、今こそそのわらびが芽吹く春になったのだ)
“石走る”は“垂水”の枕詞だが、実景とする解釈もある。“垂水”は滝のことだが、それほど大きい滝ではないような感じがする。石の上を流れる清々しい水の音も水しぶきに濡れる緑のさわらびも、春の到来にふさわしい情景である。上句の“の”の音の重複が気持ちよいリズム感を作っていると思う。下句は大らかなたっぷりとした詠いぶりで、皇子にふさわしい品格が感じられる。さわらびは初春ではなく仲春になって生えるので、この歌は春の訪れの喜びではなく、春の盛りの喜びを詠んでいるという指摘も見られる。
私は万葉集の中でこの歌が最も好きな歌の一つである。特に新春にふさわしい歌なので、時々年賀状に書き添えることもある。
志貴皇子は天智天皇第七皇子である。子には白壁王(光仁天皇)や湯原王がいる。天智から持統時代にかけては、有馬皇子や大津皇子のように皇子に生まれながらも権力争いに巻き込まれて殺されてしまう事件が多く、決して生きやすい時代ではなかった。そのなかで、志貴皇子は上手に世の中を渡ることができて長生きした皇子である。さぞかし苦労も多かったのではないかと推測される。この歌の前書きに「志貴皇子の懽(よろこび)の御歌」とあるが、さて、志貴皇子はどんな嬉しいことがあったのだろうか。