近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ(近江の琵琶湖の夕暮れの波間に群れ飛ぶ千鳥よ、鳴かないでおくれ。おまえが鳴くと私の心もしんみりと哀しみにしおれ、遠い昔のことが思われてならない)
波のうねりのような心のリズムに陶然とする思いがする。何度も声に出して読みたくなる歌だ。「近江の海」は琵琶湖のこと。「夕波千鳥」は人麻呂の造語で、リズム感がすばらしい。昼の輝く潮の光が、夕方になるにつれて弱くなり薄暗くなってくると、波間に漂う遊ぶ千鳥の姿も見えにくくなり、千鳥の声が哀調を帯びて心を揺さぶってくる。そんな情景がありありと目に浮かんで来るようだ。持統天皇の時代の都は藤原宮であるが、持統天皇に仕えた人麻呂がここを訪れたとき、天智天皇の近江大津宮はすでに旧都であり、壬申の乱で焼き滅ばされた荒都であった。その古の栄えた昔のことが悲しくも懐かしく思い出されるという内容である。
人麻呂は万葉集を代表する大歌人であり、歌聖と尊ばれている。天武・持統・文武天皇に仕えた。宮廷歌人として公的な儀式の歌や皇子らの死を悼む挽歌などを格調高く詠いあげた。一方、私的な叙情溢れる名歌も多い。
東の野にかぎろいひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ(東の原野にあけぼのの光がさしそめて、振り返ってみると、月は西空に傾いている)
天の海に雲の波立ち月の舟星の林に漕ぐ隠るるみゆ(大空の海に雲の波が立って、月の舟が、きらめく星の林の中に漕ぎ隠れてゆく)
これらも好きな歌で、どの一首を選ぶか大いに悩んだ。
人麻呂の出自や官途については不明な点が多い。役人としての身分は低く、地方役人赴任中に亡くなったというのが通説になっている。しかし、梅原猛は「水底の歌―柿本人麿論」(新潮社)で大胆な論考を行なっている。人麻呂は高官であったが政争に巻き込まれ、島根県益田市(旧・石見国)の沖合で刑死されたとする「人麻呂流人刑死説」を唱えた。また、人麻呂と、伝説的歌人・猿丸大夫が同一人物であったと指摘した。この本の中で、梅原氏は斎藤茂吉が提唱した人麻呂終焉の地を舌鋒鋭く否定し、茂吉に対しても激しい口調で批判していたのには驚かされた。興味深く読み応えのある本である。
小倉百人一首 あしひきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む