君待つと我が恋ひ居れば我がやどの簾(すだれ)動かし秋の風吹く(あの方のおいでを待って慕わしく思っていると、家の戸口の簾をさやさやと動かして秋風が吹く)
愛しい天智天皇の訪れを待ちわびている。今宵はもう訪れはないのかと半分諦め気分でいると、簾がササッと動く音にハッとして振り返る。しかし、涼しい秋の夜風のみが額田王を通り過ぎていく。
額田王は斉明天皇(天智天皇の母)と天智天皇に宮廷歌人として仕えた、絶世の美女といわれている。初めは天智天皇の弟である大海人皇子(後の天武天皇)の愛人で、二人の間には十市皇女(とおちのひめみこ)が生まれた。その後、天智天皇に召され寵愛された。つまり、この三人は弟の愛した女性を兄が奪い取ったという三角関係にあるわけである。額田王を間に挟んで二人の間には複雑な思いも芽生えたであろう。これが壬申の乱の原因だという説もある。天智天皇が崩御した後、跡継ぎをめぐり、天智天皇の皇子の大友皇子に対して大海人皇子が反乱を起こし滅ぼしたのが壬申の乱だ。なお、複雑なことに、大友皇子の皇后が十市皇女であるということだ。どっちに転んでも悲劇となる展開だ。ここで問題です。はたして十市皇女は夫と父の戦いの時どちらを応援したのでしょうか?
額田王と大海人皇子との間に有名な相聞歌が残されている。
あかねさす柴野行き標野野(しめの)行き野守は見ずや君が袖振る(まあ紫草の栽培されている標野を行きながらそんなことをなさって、野守が見るではありませんか。あなたはそんなに袖をお振りになったりして)
額田王の歌である。天智天皇が即位した翌年に琵琶湖湖畔の蒲生野という宮廷の薬草園で薬草狩を催した際に詠んだものだ。袖を振るのは、あなたを愛しているというジェスチャー。額田王は天智天皇一行より先に到着して一行を出迎えたのだろう。かつての愛人の額田王を見つけた大海人皇子が大きく袖を振って合図する。それを見た額田王は「そんなことをすると野守に見つかってしまいますよ」と心配しながらも皇子を諫める、という歌である。この野守こそ天智天皇その人ではあるまいか。大海人皇子はただちに答えた。
紫草(むらさき)のにほへる妹(いも)を憎くあらば人妻ゆえに我(あ)れ恋ひめやも(むらさきのように美しいあなたが好きでなかったら、人妻と知りながら、私はどうしてあなたに心ひかれたりしようか)
堂々とした返歌だ。しかも、兄の天智天皇に対する宣戦布告のような、実に濃厚な恋歌である。しかし、いろいろ調べてみると、このとき額田王は三十五歳ぐらいで大海人皇子は四十歳ぐらいで、当時としてはもうかなり年配であったらしい。実際の状況は、濃厚な相聞歌の贈答というより、狩りの後のにぎやかな宴席での座興のようなやりとりであった可能性が高い。とはいえ、後の壬申の乱という歴史をみると、単なる座興では片づけられない深奥の揺らめきを感じざるを得ないのである。
なお、井上靖の小説「額田女王」(新潮文庫)では、額田王が巫女的な役割をしたと解釈され、神秘的で妖艶な女性として叙情豊かに描かれている。推薦したい一冊だ。