小倉百人一首に興味が湧いたのは還暦を過ぎてからであった。まず、縦書きのノートを買ってきて、細君の高校の教科書を参考にして、まるで学生に戻ったかのように勉強を始めた。和歌の意味を理解し作者の人物像を調べたら、俄然面白くなった。次は暗記に挑戦した。細君が小さなカードを作ってくれたので、いつもそれを持ち歩いて覚えることができた。いろんな解説本や関連本を読み漁り、知識も広がった。一人ひとりの作者に愛着が湧いてきたので、小倉百人一首以外に詠んだ歌を調べてノートに書き写してみた。すると、ある大きな疑問に突き当たった。それは、藤原定家が選んだ一首は、はたしてその歌人の一番良い歌なのだろうかということである。どう考えても、もっと優れた歌があるのではないだろうか。たとえば、柿本人麻呂は「あしひきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜を一人かも寝む」が選ばれているが、もっと良い歌が数多くあることに気がついた。藤原定家自身の「来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ」にしても、これが彼の一番の秀歌であるとはとても考えられないのである。さらに、どうしてこの歌人が百人に選ばれたのだろう、というような人も散見されるのだ。
それならば、私自身が百人を選び、一番好きな歌を見つけてみようと思ってしまったのである。歌人でも文学者でもない一介の内科医が、そんな大胆で不遜なことをする、と笑われるかもしれない。もちろん、私には一番の秀歌を選べる能力などは全くないし、文学的批評などもできはしない。しかし、自分の心に響いた歌の中でこの歌が一番好きだということは言えると思うのである。そして、その大変であろう作業に専念してみることが、とても魅力あるものに感じたのである。長年私淑していた渡部昇一氏が、ある著書の中で、「なにかを新しくマスターしようという気概が無くなったときこそ、その人は“老い”たのだ」と述べている。この言葉が今回の私の挑戦を後押ししてくれたのではないかという気がする。
百人の人選は小倉百人一首の中で、実在するかどうか不明の歌人、残された歌が少ない歌人、あまり有名ではない歌人など十七名を除外させてもらった。猿丸大夫、安倍仲麻呂、喜撰法師、蝉丸、陽成院、文屋康秀、文屋朝康、藤原定方、藤原忠平、春道列樹、源等、儀同三司母、藤原公任、小式部内侍、藤原道雅、三条院、源兼昌である。これら十七人の代わりにまず、万葉集から額田王、志貴皇子、大伴旅人、山上憶良の四人を入れた。残りの十三人は三十六歌仙、中古三十六歌仙などを参考にして選んだ。それらは、源順、中務、徽子女王、源頼政、小侍従、鴨長明、藤原忠良、藤原秀能、藤原有家、俊成卿女、八条院高倉、宮内卿、である。