キスポール空港にはアムステルダム在住の青年画家である杉原 諒(まこと)君が出迎えてくれた。「はじめまして、まことでーす」テノール系の澄んだ声と秀麗な清々しい笑顔に、一瞬たじろいだ。わたしが抱いている画家というイメージとは全くかけ離れている。そのイメージとは、容貌のどこかに暗い陰があり、わずかに崩れた雰囲気を漂わせ、不遜な態度を隠し切れない、というような人物像である。まこと君はわたしよりやや背が低いものの、きりっと締まった筋肉質の身体を、青っぽいガラのシャツに淡いベージュのセーター、細めの白ズボンで包み、紺色の靴の先っぽがピンと尖っていた。この青年の半径2メートルには爽やかな微風が吹きわたっており、わたしの薄汚れた隙間だらけの心にもさっと染み込んでくる。今回の全旅程をまこと君が付き合ってくれることになっている。
アムステルダム(以下 アムスと呼ぶ)中央駅近くのバルビゾン・パレスホテルに投宿し、すばやく街の中へ飛び出した。まだ、夕方の5時だ。「とりあえずバブにご案内します」と、爽やか青年にしては似合わぬことを言う。わたしがだらしないのんべえオヤジだと、早くも見抜かれてしまったかな。大通りからそれた、人種のるつぼのような猥雑な小路を進む。やけにコーヒーショップが多い通りだ。「喫茶店が多いですね」次の彼の一言で、文化の違いをまざまざと感じることになる。「仲の良い友人にコーヒーショップへいっしょに行きましょうと言ったら、いっぺんにその友人を失いますよ」「?」「アムスのコーヒーショップは麻薬を吸うところなのです」「じゃあ、コーヒーはどこで飲むの?」「カフェで」コーヒーショップの窓ガラスを覗いてみると、死んだ魚の眼をしたような男女が窓際のじゅうたんで胡坐をかいてぼんやりしていた。鼻につんとする変な匂いが小路いっぱいに漂っていた。かの有名な“飾り窓の女”を少しだけ覗いていきましょうかという。いやらしいスケベおやじだと、早くもばれてしまったのかと、ひやっとする。でも、見たい、見たい。麻薬の匂い漂う小路からさらに狭い迷路のようなところに入り込むと、ガラスドアがずっと立ち並び、下着だけのあられもない姿で中に立っている女性が、腰をなよっとさせたり、ウインクしたりして手招きしている。通行人から1メートルぐらいしか離れていない。たいていは身体のどこかに刺青があったり、へそに穴が開いていたりするが、稀には、あっと驚くタメゴロー的な人もいる。ガラス戸の中は6畳ぐらいの小部屋になっており、カーテンが閉まっているのは、ただ今仕事の真最中ということらしい。見学するのは興味津々の血走った目つきをした野郎どもばかりかと思えばそうでもなく、ほとんどが普通の観光客のようだった。もとの通りに戻り、いい感じのパブに入った。由緒ある店でDe Drie Fleschjesと書いてあった。わたしはGrolschというビールを頼んだ。ハイネケンの本場であるからビールはうまい。まこと君は、僕はあまり飲めないのでと言って、ピンク色のソーダを飲んでいた。外の椅子に座って周囲の雑踏を観察すると、毛並みのよい猫が道のあちこちを歩いているではないか。たったこれだけのことで、わたしはこの街がすっかり見違えるようになり、気に入ってしまった。黒猫を発見し興奮する。「にゃおんにゃおん」と呼べば、尻尾をピンと立ててこっちへ寄って来た。頭を撫でてやると、ごろんとひっくりかえりお腹を出した。まこと君、となりで気味悪そうに横目でわたしを睨んでいた。