12月29日
連日6時に眼が覚め、7時に食堂へ駆け足で入っていく。いつもの窓際の隅っこのテーブルに着く。今朝日本人が多いのは、きっと昨晩団体が到着したにちがいない。すぐ隣にどこかで見たことがある紳士が座っていた。(あっ、そうだ。NHK会長夫妻が同じホテルに泊まっているはずだ、と真千さんが昨日言っていた)「あなた、どうして卵焼きなど持っていらしたの。さっき、オムレツを頼んだでしょ」「あっ、そうか・・・。オレもぼけちゃったかな」「それに、ハムを持ってくると言っていたけど」「あれ、お皿を置いてきちゃった」(この人、なんだか少し怪しいぞ)こっちは旅先のことゆえ気分がリラックスしているので、知らんぷりをして話しかけてみた。「音楽会に行かれますか?」大晦日の“こうもり”と元旦のニューイヤーコンサートに行くらしい。「お一人ですか」「ええ、今回は気軽に一人で来てみました」こっちは何回も来ていてすっかり慣れているもんね、という顔をして。(今回が2回目なのだが)
11時、真千さん来る。ザッハーホテル近くのモーツアルトカフェという有名な店で昼食にする。いつものようにソーセージ、エビが載っているシザーサラダ、ホットりんごパイ、メランジュ2杯。ソーセージはほかの店とは違い、普通、やや太い、太いの3本である。普通サイズが一番うまい。
このカフェの隣に高級そうな紳士服店があった。Wilhelm Sungmann & Neffeと書いてある窓を覗くと、まだチョウに結んでいない蝶ネクタイが無数掛けてあったので入ってみた。日本では蝶ネクタイはほとんど売っておらず、あったとしても無地のものばかりである。ここには上品な柄物がたくさんある。これは良いチャンス。深緑と空色の柄物をわたしが選び、真千さんは真っ赤と黄色のものを持ってきて「ドン・ジョバンニでしたらこれぐらいのものをお付けあそばせ」ついでにカエル色の吊りバンドも買ったが、これは英国製と書いてあった。
日本で見た何かの雑誌に、本物の花を砂糖漬けにして作るお菓子の店が載っていたので、それをちぎって持ってきていた。「こんな店があるとは知りませんでした。先生も見かけによらず、なかなかやりますねえ。えーと、ここはハイドンハウスの近くです」住所を見ただけで場所が分かるらしい。「おぬしもなかなかやるねえ」トラムを乗り継いで、歩きまわって、やっと辿り着いた。Bluhendes Konfektというごく小さな店には、青い瞳の金髪のスリムな美人がほほ笑んでたたずんでいた。「この店を訪ね、あなたに会うために日本からわざわざ来ました」と、さっそくドン・ジョバンニの練習だ。すると、「私は朝からずっとここであなたを待っていたのです」なにかできすぎているなあ。目当てのお菓子を買ったのはいいが、壊れやすいので、日本には手荷物で持ち帰ってくださいという。(これは困ったな、カバンがない)真千さんにカバンが欲しい、と言ったら、日本人の鞄職人を知っているので、どうせならそこでお買いになったら、という。本人から直接買うと店に出る値段よりも7割安いというので、急遽その人のアパートを訪ねることになった。彼女、物事を決めるのが速く、行動も極めて速い。再びトラムを乗り継いで、アパートの部屋に着くと、ちょんまげをおつむのてっぺんに作った30代の青年が出てきた。部屋の中には20個ぐらいのカバンが壁にかかっており、見るだけでもいいですから、という。2人とも口をそろえて「これ、絶対にお似合いですよー」と勧めてくれたカバンを見れば、ひらひらしたものがいっぱい垂れ下っているもので、とても50男が持つものとは思えない。(おいおい、真千さん、ちょっと違うんじゃあないの)黒の無難なカバンを選んで、400ユーロでいいですよ、と言われた。この途中、ハイドンの家へ立ち寄ってきた。オラトリオ“天地創造”を作曲したのもこの家である。ひと月前、サントリーホールでニコラス・アーノンクール指揮ウイーン・コンツエントス・ムジクスの天地創造を聴いたばかりである。この家にブラームスが住んだこともあり、交響曲2番を作曲した机と椅子が置いてあった。係員がはにかみ笑いのかわいい少女であったが、姿が見えないので、その椅子に座って机をコンコン叩いていたら、その少女、血相を変えてこっちに走ってきた。
夕方4時を過ぎるともう薄暗い。笑い転げる犬をもう一つ欲しくなり、再びデパートへ行く。真千さんも笑いながら「私も買います」今晩もオペラなので早めに夕食をとらねばならない。しかもアルコールは控えめに。和食が食べたくなって、天満屋へ向かったが、途中にステーキポイントという店が目に入った。「ステーキにしようか」「大賛成です」胸の前に両手を組んで喜んでいる。(この人、典型的な肉食人だからなあ)200gのヒレをレアに焼いてもらった。日本で食べるステーキとは全く違うのだ。なにが? (1)脂がない (2)肉の香りが強い (3)肉が厚い (4)安い
いったん着替えにホテルへ戻ると、氷水で冷えたシャンペンが部屋に置かれてあった。ホテルのサービスである。ロビーで待っている真千さんを呼んで、さっそく2人で空けてしまった。ふらふらとなって歌劇場へ乗り込んだ。グランドホテルと歌劇場の間には4つの建物があるが、ホテルからのぶち抜きショッピングモールを通れば寒い道路を歩かないで辿り着ける。今日はロッシーニ作曲“セビリャの理髪師”である。前から8列目の席であった。と、簡単に書いているが、ものすごくいい席なのである。このオペラ、CDを聴きこんで、字幕がなくても内容が解るぐらいしっかりと予習をしてきた。しかるに、序曲が終わってから休憩に入るまで、わたしは全く記憶がない。良い音楽を聴きながら居眠りするほど心地よく健康にいいものはない。しかもだ。ウイーン国立歌劇場の8列目での居眠りなのだから、これ以上贅沢なうたたねはない。酔いざましの水をがぶ飲みしながら、真千さんのレクチャーを聞く。「このオペラ、モーツアルトの“フィガロの結婚”の3年前の物語だって御存知でした?」「そうなの。そういえば理髪師の名前がフィガロだった」「今日のフィガロ役には参りました。大きなミスを5回もやって、リズム感も悪くて、私はもうドキドキして手に汗をかきました」「そう。こっちは意識を失っていたからわからないが、起きていてもわからんだろうなあ」「そりゃあそうです。歌手にしかわかりません」