私の好きな店の中で、ここではあまり書きたくない店はいくつかある。つまり、他の人に知られたくない、自分だけのものにしておきたい店だ。このカフェもその中の1つだが、あえて名前を伏せて取り上げたいと思う。1つだけヒントを述べると、ある美術館に併設されているカフェで、建物は別々である。まあほとんどばれてしまったようなものだが。
このカフェの大きな魅力は野鳥と音楽である。クラシック音楽を聴きながらコーヒーを飲み、庭に次々にやってくるシジュウカラ、ヤマガラ、メジロ、コガラが大きな石の上のくぼみのプールで水浴びをする姿を眺めるのは、なんともいえず心が安まる時間である。しかもそれが本当に目の前で観察できるのだ。野鳥好きの私にとって、これほど魅力的なところはない。テーブルが4つしかないごく小さな店内には、大きくて立派なオーデイオが備え付けられてい、いつも上質な音楽が響いている。そして、ここにふさわしい物静かで知的な中年夫婦がひっそりと店を営んでいる。
店主がどういうふうに曲を決めているのかは知らないが、私が行くときはワーグナーかバッハが多いような気がする。私は、店主が客のイメージに合わせて選曲しているのではないかと想像する。駐車場から玄関までの30mの小道を私が歩いてくるのを見ていて、「いつも来るあの初老のカッコ良い男は音楽に詳しいようだから、ワーグナーでもかけようかな」などと言いながら、CDやレコードを取り出しかけ始めるのではないだろうか。ある年、正月に訪れた時は、店の戸を開けた瞬間から、私の大好きなクライバーが指揮したウィーンフィルのニューイヤーコンサート1989の第一曲目が響いていたので狂喜したことがあった。店主の配慮と客のセンスがピタッと一致した至極の邂逅であった。