かけおちる / 青山文平(文春文庫)★★★★★
私は時代小説を比較的早いペースで読むことが多いが、この作家の場合は違う。1行1行の内容が濃く、味わいがあるので、ゆっくりと噛みしめるように読む。こういう作家は少ない。たとえば池波正太郎だ。切れの良い短く平易な文章であるが、行間には本文の3倍以上の意味が詰まっている。青山文平の場合、行間というよりも文章そのものが2倍の濃さを有している。たとえば、「己の軀を取り巻いている諸々が、擦り寄ってくるような、おずおずと触手を伸ばしてくるような、けっして不快ではないその包み込もうとするものに身を委ねていると、先刻、理津が言った、己の血の音が聴こえるような気がした」。こんな具合だ。少し難解だが何度読んでも味わい深い。到底、一度目を通しただけでは通り過ごせない文章だ。
武士が武芸よりも実務能力を問われるようになった江戸中期、経済の弱い貧乏な小藩は産業開発に力を入れるようになる。この本はそういう時代背景の物語である。そしてキーワードは「かけおちる」だ。妻にかけおちをされた夫は仇打ちと同じで、その2人を追って斬らなければ自分の立場を復帰することができない。それが妻仇討(めがたうち)である。主人公の中年武士は若い頃、妻に、そして現在、娘に「かけおちる」をされる。どうしてかけおちされたのか?謎は深まるばかりだが、その真実はあまりにも清く哀しい。(平成29年3月)